AJAJの歴史

1969年に17名で発足した日本自動車ジャーナリスト協会の創設時代を振り返る

1969年 挨拶状
1969年8月、A.J.A.J.設立時に、高岸清会長から関係各所に送られた挨拶状。会員名簿と共に送られれました。

1960年代、とくにその後半に入ると、日本のモータリゼーションは急速に発展し、個人需要も急上昇し始めました。1960年の生産台数は48万台でしたが、63年には128万台、67年には、西ドイツ(当時)を抜き世界第2位の315万台、70年には529万台といったような急成長を続けていったのです。こうした状況と共に、自動車専門誌も増え続け、一般誌紙にも自動車記事が多く掲載されるようになりました。以下は、A.J.A.J.創立時、高岸清会長が関係者に送った「ご挨拶」から抜粋したものです。・・・「近来、モータリゼーションの急速な発展にともない、自動車関係の報道、論説などが、専門誌のみならず、広くマスコミ全体に取り上げられる時代となりました。(中略)自動車および、それをとりまく諸条件について、確たる認識も教養もないまま、安易な解説や論評をこころみる、いわゆる自称、自動車評論家の輩出をみるにいたりましたことは、極めて残念なことであります。無責任な言論指導と歪曲された世論の醸成は、健全なモータリゼーションを謝った方向に導く惧れなしとしないのであり(中略)、私達は過去三年間、こうした事態を予想して、お互いに協力して参りましたが、この機会に自動車ジャーナリストとして、それぞれの分野で責任ある活動をしている個人の団体を結成することにいたしました。(以下略)・・・こうした理由と経緯でA.J.A.J.は設立されたわけですが、設立当時の諸状況については、創立25周年を機に行われた「座談会のレポート」に詳しいので、そちらをお読みいただければ幸いです。ちなみに、1969年発行の会員名簿第一号には、17名が名を連ねています。学術顧問としても、当時の日本自動車産業の発展に多大な寄与をされていた著名な方々が、当会の趣旨に賛同し名を連ねていただいています。

<資料提供>
資料のほとんどは山岸秀行名誉会員からの提供であり、いろいろ話も伺いました。山口京一名誉会員からも、いろいろ話を伺っています。ここに謝意を表したいと思います。

ダイハツへの依頼状

ダイハツへの依頼状

1969年に設立されたA.J.A.J.ですが、関係各所への会の趣旨の浸透は思ったほどには進まず、自動車メーカーによってもかなりの温度差がありました。1971年8月28日付けのこの依頼書は、そうした状況下で、高岸清会長がメーカー広報部に送った「勉強会のお願い」の一例です。

日産自動車からの案内状

日産自動車からの案内状
上記のような状況もある一方で、会の存在が認められるような動きが出始めたのも同じ頃でした。日産からのこの案内状は、日産主力工場のひとつである「栃木工場」が稼働を始めた際のものです。

顧問就任の依頼書

日産自動車からの案内状

当時の、日本の自動車工学を牽引されていた先生方に、「学術顧問」として名簿に名前を連ねていただくことをお願いした時の書面です。ご承諾いただいたのは「まさに錚々たる」顔ぶれでした。その後、一昨年亡くなられたポール・フレール氏も名誉会員として長く名を連ねていただきました。

JAFへの依頼状

JAFへの依頼状
A.J.A.J.設立当時、日本の自動車ジャーナリストの海外取材には困難が伴いました。海外メーカーとのパイプもほとんどなく、モータースポーツ・イベントのクレデンシャル、モーターショーのクレデンシャル…等の入手にもかなり手間取ったものです。そんな状況下で、高岸清会長からJAFの中村俊夫会長代行に送られた依頼書です。

海外団体との交流

海外団体との交流

日付と内容からみて、これは、1971年、私「岡崎宏司」が、オーストラリアのサザンクロス・ラリーを取材した際、オーストラリア・モータースポーツ協会のダグラス・スチュワート会長から、A.J.A.J.の高岸清会長宛に送られてきた手紙です。山岸秀行名誉会員からお貸しいただいた資料の中に入っていたのものですが、初めて見たので驚きました。このとき、オーストラリアにはけっこう長期滞在して、多くのモータースポーツ関係者と出会いました。その話を高岸清会長に伝えたことから、会長はお礼の手紙を書いたのでしょう。したがって、この手紙は、スチュワート会長から返礼の手紙ということになります。会発足当時は、こうした、ちょっとした機会のやりとりを通じて、海外との交流にも力を注いだということです。

歴代 会員名簿

左から「1969年」「1970年」「1987~8年」の会員名簿ですが、「1969年」の名簿には日の丸のデザインが入っていません。発足時にはF.I.A.J.A.=国際自動車ジャーナリスト協会に加盟していなかったからです。そして、翌1970年に加盟が認められ、それを機に、日の丸の中に「A.J.A.J.」と「F.I.A.J.A.」を併記するデザインに変わりました。下部に書かれているのは、「当協会は国際自動車ジャーナリスト協会に加盟した組織であり、この名簿に記載された会員に対して、自動車関係の種々のイベントへの取材協力をお願いする」旨の、英文と和文の文言が、当時のF.I.A.J.A.会長、ジョヴァンニ・カネステリーニ氏、A.J.A.J.会長、高岸清氏の連名で書かれています。

1969年

上に触れたような理由で、最初の会員名簿には日の丸がありません。会員数は17名で、専門項目を記載(自己申告)するようになっていました。

1970年

会員名簿の内容は1969年版と基本的に同じですが、世界各国の代表的自動車ジャーナリスト協会を国際的に統括した組織「F.I.A.J.A.」に加盟したことで、表紙の体裁は大きく変わっています。

1987年

この年から判型が大きくなり、発行も2年に1度になりました。判型が大きくなったのは、会員の増加に対応するためで、2年に1度の発行になったのは、予算的に厳しかったことが主な理由です。ちなみに、この名簿でわかるように、会員は33名に増えています。

AJAJ創立25周年を記念して会誌が発行された。

25周年 座談会
創立25周年記念文集にAJAJがどのように生まれたかを振り返った座談会のレポートが掲載されている。

25周年 会誌