AJAJ講話会 三本和彦さん

開催日:2012年10月11日
場 所:国際文化会館

AJAJ講話会 三本和彦さんいきなり、落成前の東京タワーの展望台屋上という妙な場所に三脚を据え、それに載せた望遠レンズ付きのカメラを構えた若き日の(?)三本氏のスナップ・ショットから始まったAJAJの講話会。今回は前回の山口京一氏に続いて、筆者の大先輩でもある三本和彦氏の講話である。

三本和彦さんAJAJ講話会 風景筆者が知る限り、三本氏ほどの筋金入りの江戸っ子はほかに居ない。話し方は完全、完璧なベランメェである。聞いているだけでこちらの気分もスカッとする。数年前、事故で腰を痛められ、杖を離せなくなってしまったとは言うが、口の方はどうしてどうして、全く衰えを知らない。「新車情報」以来のブシツケボウは健在なのだ。

東京新聞を経てフリーになられたが、我々にとっての大先輩の一人である小林彰太郎氏との友人関係も良く知られたところ。今回の三本氏のお話で初めて知ったことで驚いたのは、三本氏がスピード・グラフィックという報道用カメラを、小林さんがオースティン セヴンという小型車を買うために、GHQ(連合軍総司令部)の日本語教師のアルバイトをしていたころの話。当時、小林さんは運転免許を持っていなかったという。何事も聞いてみなけりゃ判らないものでありますね。

三本和彦さんAJAJ講話会 風景で、話はモーター・スポーツへと進む。アフリカのケニアで開催されていたサファリ・ラリーには、1960年代半ばから前後8回ほど取材していると話されていた。年に一回しか開催されないのだから、8年連続でケニアへ行っていることになる。こうした取材では、大抵はメーカーなり、参戦しているチームなりの丸抱え(つまりアゴ《食事代》、アシ《交通費》、ネドコ《宿泊費》付き)で行くのが普通だが、三本氏は当時でも全て自腹を切って取材したのだと言う。そうしないと、自由に記事が書けず、写真も撮れないというのがその理由だ。ジャーナリストを名乗る以上は当然なことなのだが、どうも最近の我々はどんどんナマクラになってしまっているようである。自戒!

三本氏は学生のころからラリーに出場していたと言うほどのクルマ好きだったそうだが、やがて病が嵩じて海外のラリー・イベントへの出場を企むことになる。其処で選んだのが1968年に開催された「ロンドン~シドニー・マラソン」というとんでもないイベントだった。ロンドンをスタートしてヨーロッパから中近東、アフガニスタン、パキスタンを通って《今では考えられない》インドから船でオーストラリアのパースへ上陸、オーストラリア大陸の南側を横断してシドニーへ至るという、走行距離およそ16000kmのラリー。参加台数150台、ゴールまで辿り着いたのはわずか54台という過酷なもの。使ったクルマはほとんどストックのままのヴォクスホール・ヴィーヴァという、わずか1100cc4気筒エンジンを搭載した英国車。これに3人の日本人メンバー(三本氏の他に古賀信正氏、寺田陽次郎氏)が搭乗、シドニーを目指した。結果はわずか2分差でタイムアウトだったそうだ。

カーグラフィック誌の創刊当時から、表紙写真やグラビア写真の撮影を請け負っていたが、日本のクルマ写真家としては草分けの一人と言って良い。妙に気取らず、短時間で仕事を完成させるのは、新聞社時代に身に付いた手法だ。臨機応変にして、編集方針に沿ってスジを通す。この辺りも硬派なジャーナリストならではの生き方なのだ。「どうせモーター・ジャーナリストなんざ食えねえんだからな、自分の主義主張を通した方が勝ちってもんだよ」この一言が、筆者にとっては一番の収穫だったように思われた。

天下のミツモト、未だ意気軒昂である。

この他、エンツォ・フェラーリのポートレート撮影とか、ベルトーネの工房を訪れた時のエピソードなど、面白い話がてんこ盛りだったのだが、それは又別の機会に。

AJAJ講話会 三本和彦さん 記念撮影
■参加者(敬称略、五十音順)
石川真禧照、太田哲也、岡島裕二、岡本幸一郎、加瀬幸長、片岡英明、川上完、日下部保雄、菰田潔、佐藤篤司、鈴木健一、鈴木直也、鈴木誠男、高根英幸、高山正寛、滝口博雄、竹岡圭、中村孝仁、西村直人、伏木悦郎、堀越保、松下宏、丸茂亜希子、諸星陽一、森口将之、吉田由美