AJAJ講話会 青木英夫さん

青木英夫さんAJAJ講話会 風景今回は青木サンにとってはオハコのヒコーキ話。これは、当方も嫌いではないから大いに楽しませてもらった。青木サンが初めて自分の自家用機を購入したのは昭和38年(1963年)のこと。機種はTA135。中古の機体だったが、購入価格は当時280万円というから半端ではない。ちなみに、国産車の最高クラスである、同年式のプリンス・グロリアのスーパー・シックスで119万円となっていた。

このTA135をきっかけに、青木サンは飛行機操縦に本格的に関わることになる。同時に、航空写真の撮影も始めていた。機体が低翼型(主翼が胴体の下側にある形式)だったため、地上の写真撮影には必ずしも向いていなかったが、其処は持ち前のチャレンジ精神で機体操縦と写真撮影の二役をこなしていたそうだ。この後、青木サンは、ビーチクラフト、ムーニー、セスナなどを乗り継ぐ。航空写真撮影に適した高翼型(主翼が胴体の上部にある形式)のセスナでは、上側をヒンジとした「しとみ戸」形式の側面窓を開けると、負圧で窓が主翼の下側に引き付けられ、撮影がやり易かったなど、実体験に基づく貴重なエピソードも興味深かった。

AJAJ講話会 青木英夫さんクルマとの出会いは、前述の通り会社勤めをしていた20代前半で購入したシヴォレーだったが、その後自動車修理工場を始めたことで、様々なクルマと出会う様になる。最も記憶に残っている一台は、1960年代にひょんなことから30万円で購入した1951年ころの英国車ランチェスター。このクルマにはウィルソン社製の特殊なプリ・セレクター・ギアボックスが搭載されており、普通のトランスミッションに慣れていた当時の一般的なドライバーには扱い切れず、青木サンが引き取ったのだと言う。この頃から自動車雑誌に新型車のロードインプレッションを寄稿するようになる。おそらく、日本では自動車雑誌でロードインプレッションを始めたパイオニアではないかと思われる。こうした活動が大いに影響し、1964年5月の第1回日本グランプリでは計時マーシャルを務める。同時にA級ライセンスも取得、さらにJAFスポーツ委員会資格審査委員と言う肩書も加わる。これには1966年に日本ベストドライバー・コンテストで優勝したのだから当然である。以後、雑誌をはじめとする各種媒体での健筆振りは諸兄もご存知の通りだ。

未だ占領軍が日本に居たころから始めたというスカイダイビングは、つい最近までやっていたそうだ。この世界でもパイオニアなのである。ヒコーキの操縦は2000年ころ卒業されたというが、本当はもっと空を飛んでいたいに違いない。

青木サンは、「これから先、ジャーナリストとして息長く続けていくためには何をしたら良いでしょうか?」という質問には「何でも良いから、他の人が及ばない得意技を持つことだろうねえ」という答えが返って来た。まさに、青木サンは他人の及ばぬ特技の宝庫なのだ。後輩の我々は以て瞑すべしというところである。

■参加者(敬称略、五十音順)
石川真禧照、内田俊一、太田哲也、大谷達也、岡島裕二、川上 完、菰田 潔、鈴木健一、竹岡 圭、津々見友彦、中村孝仁、伏木悦郎、松下 宏、丸茂亜希子、山崎公義、山崎元裕、吉田由美